トップへ 地図へ 人物へ 作品へ リンクへ


本文

本文(書き下し文)
 豊臣氏は、尾張に出づ。尾張の愛智郡に中邑(なかむら)あり。邑に銀杏の樹多し。因(より)て或いは銀杏村と呼ぶ。享禄・天文の際、村民に彌助なる者あり。彌助子無し。其の妻と之を天に祈る。妻日輪の其の懐に入ると夢(ゆめ)む。已(すで)にして身(はら)む有り。天文五年正月朔(ついたち)、一男児を生む。因て名づけて日吉と曰ふ。日吉生まれて英異なり。八歳父を失ふ。其の母、日吉を挈(ひつさげ)げて転じて邑人に寄食す。邑人之を患ふ。同閭(どうりよ)に筑阿彌なる者有り。国主織田信秀の僕と為り、疾を以て帰耕す。邑人為(ため)に議り、納(い)れて継父と為し、一男一女を生む。乃ち日吉を邑傍(いうばう)の光明寺に託し、僧たらしめんと欲す。日吉機敏にして、誦梵(しやうぼん)を暁(さと)らず。人の武事を談ずるを聞く毎(ごと)に、輒(すなは)ち之を傾聴し、慨然として嘆じて曰く、「僧は乞丐(きつかい)の徒なるのみ。大丈夫、乱世に生まれて、安(いづ)くんぞ乞丐を学ぶを為さん」と。是に於て游嬉(いうき)して意に任す。人と諍ひては、輒ち之を殴撃し、僧をして己を厭苦せしめんと欲す。僧遂に其の家に逐ひ帰さんと議す。日吉継父の己に怒るを恐るるや、大言して曰く、「果たして我を逐はば、我且に寺を焚き、悉(ことごと)く群僧を撃殺せんとす」と。僧頗(すこぶ)る惧(おそ)れ、乃ち事に託して辞謝し、衣物を予へ、礼して之を帰す。日吉時に甫(はじ)めて十歳なり。(岩波文庫『日本外史』を参考にした)

本文(口語訳)
 豊臣氏は尾張の出身である。尾張愛智郡に中邑があった。村には銀杏が多かったので、銀杏邑とも呼ばれた。享禄・天文の時、村民に彌助という者がいた。彌助には子がなかった。その妻とそのことを天に祈った。妻は日輪がおなかに入っていくのを夢に見た。その後まもなく妊娠した。天文五年の1月1日に、ひとりの男児を生んだ。そこで日吉と名付けた。日吉は生まれながらにして優秀であった。日吉が8歳の時に父が死んだ。その母は日吉を抱えて転々とし、ある村人のところに居候した。村人はこれを苦にした。同じ村に筑阿彌という者がいた。国主の織田信秀の下僕となったが、病気のせいで帰郷し畑を耕していた。村人は相談してここにその母子を入れて継父とした。一男一女が生まれた。そのため日吉を村の近くにある光明寺に預け、僧にしようと思った。日吉は機敏ではあるが、お経を読むのが得意ではなかった。しかし人々が戦のことを語っているのを聞くたびにいつも熱心に耳を傾け、そして憤り嘆いてはこう言った、「僧はものもらいみたいなものだ。一人前の男子たるものは乱世であるこの世に生まれたからには、どうしてものもらいのことなど学んでいられようか」と。そこで修行をやめて遊び回った。人々と争い、殴りかかって僧たちに自分を嫌うようにし向けた。僧たちはとうとう日吉を家へ追い返そうと相談した。日吉は継父が怒るのを恐れてこのように大言壮語した、「まことに私を追い出そうとするなら、寺に火を放ち、僧たちを皆殴りつけようとするぞ」と。僧たちは大変恐れおののき、そこでほかごとにかこつけて陳謝し、衣服を与えて、礼をして村へ帰した。日吉はこの時、やっと10歳になったばかりであった。
(編集者訳)
豊国神社内 豊公誕生之地
豊国神社内 豊公誕生之地

日本外史のトップページ

作者 頼 山陽(らい さんよう)

愛知県とのかかわり

本文

教材化のヒント

この教材の魅力

魅力ある授業のために(単元化例)