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愛知県との関わり

 戦後、郷里に帰った一英は、旺盛(おうせい)な詩作を始めるとともに、日本の詩の韻律の研究と実践に打ち込み、特異な業績を残しました。また、自分が生まれ育った尾張の地にも深い関心を抱いたことで知られています。一英には、「木曽川と水の思い出」という文章がありますが、郷土への深い愛情がうかがわれます。

木曽川と水の思ひ出                       

 七月二十九日の午前、私は芭蕉の句で知られてゐる木曽川河畔の笠松を訪ねた。十一時近くの陽は数日来、雨をみぬ街路や、瓦屋根に烈しく照りつける。けれど橋上から川の眺めを享楽するために、尾西線の終点、木曽川駅で電車を捨てると、乗車をすゝめる自勣車にも乗らず橋の袂までの数町をさほど暑さを感じずに歩いた。橋近くの陶器を商ふ店は路傍の低地に蕃人小屋のやうに腰高に建ってゐて、街路へ通ずる陸橋の上には赤い甕が幾つも不様な尻をみせてゐた。──だが彼らとても夜は居ながらにして涼をとるわけである。
 川に出る。橋桁の間からみる水、青に緑に紫に遙かかなたは銀に光ってゐる。白帆が小さくみえる。あれも知多半島の常滑あたりから陶器を運んでくる船かも知れぬ。数年前知多の浜で歌った歌を思ひ出す。
 帆に光り波に光り砂に光り
 空に海に夏ぞ来にける
     (中略)
 宿の風呂で汗を流して部屋にもどると、鮎の塩焼が待つてゐる。川水の色が変わつてゐる。光が氾濫してゐる。日盛りだ。その上今日は中伏である。光を眺めながら茶をすゝる。なんとすばらしい光だ。光は光を走らせ、光を追ひ、光を越え、光は光を砕き、光を散らし、逃げ、捕へ、放ち、遁れ、寄り添ひ、離れ、追ひすがり、並び、取り残され、駆け出し、進み、遅れ、競ひ、光は流れて行く。
 艪の音がきこえる。船は見えない。大方、四季の里の繁った藤棚の下を通って行くのであらう。櫓の音をきくと私は思ひ出す。二十六、七年もの昔を。私はその頃、生まれると間もなくから四、五歳頃まで木曽川の下流、起といふ町に両親とともに住んでゐた。私は艪の音に眼を醒し、艪の音に眠った。私の詩的情操を育んだものは実にあの艪の音であったと思ふ。                                                                                (昭和3年9月 「詩魔」第十六輯)

 ここでは、笠松に存在した「四季の里」という旅館に宿泊した折の思い出が綴られています。名鉄尾西線は、現在、玉の井駅までで終わっていますが、昔は、木曽川港駅まで行っていました。当時は、手前の木曽川橋駅から川に出て、木曽川を渡り、笠松へと行くのです。この一英が残した文章には、木曽川を中心とした土地の雰囲気が非常によく表れています。一英は、生まれ育った濃尾平野に古くから樫の木が繁茂していたことから、日本人の生活、学問、文化が樫の木文化によって成り立っているという独自の文化論を打ち立てました。この「樫の木文化論」には、この土地で生まれ育った生活人としての一英の郷土観がよく出ています。木曽川の文化圏というものに一英は大変愛着をもっていました。そしてそのような愛着は、現在も一宮地区の人々によって受け継がれています。ここで一英の詩「木曽川の岸切れむとす」を紹介しておきます。

 木曽川の岸切れむとす

木曽川の 岸切れむとす あらしなほ
尾張飛騨能登 吹きあれて あめふりつづき
きのふけふ たるきのうちに 菌生ひつ

訓へかしこみ 尾張野の あばらやにあり
人の世の さだめきはむる 小さき身も
おそるべきつげ 日の本の ためしに遭ひつ

火の思ひ いま民になし 大神の
めぐみをわすれ くが うみに たたかひやぶれ
ひれ伏して なさけこふこそ あはれなれ

めでたき夢は 消えうせつ つのれかし あめ
きそへ風 いのちのこれる きびしさを
眼にもこそ 識れ 木曽川の岸切れむとす

 「木曽川の岸切れむとす」では、荒々しい木曽川の姿が活写されています。愛すべき木曽川も時には荒ぶることもあるのです。それが自然の姿でしょう。

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作者 佐藤一英

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