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作者 小酒井不木(こさかいふぼく)

 明治23年(1890)〜昭和4年(1929)。本名は光次(みつじ)。
 海東郡新蟹江村(現海部郡蟹江町)に生まれ、大地主の長男として成育した小酒井不木は、幼少の頃よりその非凡な才能を現し、愛知県立第一中学校、旧制第三高等学校を非常に優秀な成績で卒業。大正3年(1914)には東京帝国大学医科大学を卒業し、大学院に進んで、生理学、血清学を専攻した(後、医学博士)。
 大正4年(1915)、神守村(かもりむら、現津島市)の地主の娘である鶴見久枝と結婚。大正6年(1917)、東北大学助教授の職を拝すると同時に、海外留学を命じられる。大正8年(1919)、留学先のロンドンで肺結核を発病、喀血(かっけつ)した不木は、翌年日本に帰国し、妻の郷里での静養生活を送り、随筆や探偵小説などを精力的に発表した。大正12年(1923)、名古屋市御器所町(現昭和区鶴舞)に転居した不木は、自分の生活する名古屋を舞台とした探偵小説を著すなど、豊富な医学知識を駆使しながら、犯罪者の心理を描写した。
 不木は探偵文壇との交流を活発に行い、後輩の育成にも努めている。大正14年(1925)には江戸川乱歩が不木邸を訪れ、その親交を深めているし、乱歩の処女作「二銭銅貨」が不木の推薦によることはよく知られている。不木自身の作品も、大正15年(1926)発表の「人工心臓」が日本における最初の純SF小説として名高く評価されているなど、不木は正に日本の推理小説界の草分け的存在であると言えよう。
 昭和4年(1929)、急性肺炎により逝去。小酒井家の墓は名古屋市昭和区の八事霊園にある。

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