海東郡新蟹江村(現海部郡蟹江町)に生まれた小酒井不木は、新蟹江尋常小学校、蟹江高等小学校、愛知県立第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)で学ぶ。
この時、愛知一中の校長はマラソン王で知られる日比野寛である。開校以来の秀才と騒がれた不木であったが、不木の母親は夫の死もあり、息子を進学させず、家業の監督に当たるよう望んだ。不木が進学できたのは、この日比野校長が母親を説得したからこそであった。
その後、東京帝国大学医科大学を卒業し、海外留学を命ぜられ、日本の医学界を背負って立つ存在になることを嘱望されていた不木であったが、留学先のロンドンで喀血(かっけつ)した後は、妻の故郷の神守村(かもりむら、現津島市)や名古屋市御器所町(昭和区鶴舞)で静養生活を送りながら、執筆活動に勤しみ、名古屋や蟹江を舞台とした探偵小説などを発表した(※注)。
医学的知識を持ち、西洋の探偵小説に対する造詣も深かった不木は、正に日本の探偵小説界のパイオニアと言えようが、多くの探偵作家たちが不木を慕って集まったのは、これだけが理由ではない。博学でありながら、温厚で偉ぶらず、他人の面倒見のよい不木の人柄があってこそのことである。
現在も蟹江町や昭和区鶴舞に建っている不木の碑の前に立てば、その血みどろの作品群からはうかがいにくい不木自身の人徳が偲ばれるかのようである。
※注・・・「通夜の人々」「ふたりの犯人」「酩酊紳士」など。はっきり地名は書かれていないが、「卒倒」や「血の盃」も加えられよう。
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