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笈の小文
(おいのこぶみ)

  貞享4年(1687)10月から翌年にかけての上方旅行記である。芭蕉がこの旅で志したのは、吉野の春に花を探り、更に進んで和歌浦、須磨、明石に名所旧蹟を訪ねることであった。また亡父の三十三回忌が近くあり、その法要に列席するために帰郷したいという思いもあったようだ。一方で芭蕉の文名が広く高まる中で、各地の俳人衆からの度重なる招きにこたえるという目的も少なからぬ比重を占めていた。
 芭蕉は10月25日に江戸を発ち、東海道を経て故郷伊賀上野へ帰郷し、翌年の正月を故郷で迎えた後、門人杜国を供に吉野・高野山・和歌浦・奈良・大阪・須磨・明石と遊歴し、4月23日に京に入った。芭蕉は旅行後数年を経た元禄3、4年ごろ、この紀行の成立に尽力したが、結局未定稿のまま大津の乙州に預けて、4年秋に同地を去り江戸に戻った。未定稿のまま死後に残されたものを、芭蕉没後15年後を経た宝永6年(1709)に、乙州が刊行し、世に知られるに至った。したがって「笈の小文」という書名も乙州の命名によるものかも知れず、この他に大和紀行・卯辰紀行・芳野紀行・大和後の行記、などの呼称がある。


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作者 松尾芭蕉

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